生は二次元で死は三次元。
人間は幼虫の状態で、死ぬと死の羽を手に入れて飛べるようになる。
二年前まで抽象画を描かなかった。いや、描けなかった。
だけど、二年前死ぬほど苦しいスランプに陥った。
いや、描き始めて20年以上スランプでなかった時などなかった。
その中でもさらに苦しい時期だった。
絵を辞めようと何度も心から思った。
しかし、ジョアン・ミッチェルやトゥオンブリーの抽象画を見て救われた。まだいけるかもしれない。そんな可能性を二人は僕に見せてくれた。
そこから抽象画を描き始めるのだが、なかなか思うようにいかなかった。というのもやり方が間違っていたからだ。
渦中にいる者は盲目である。
僕は盲目だった。そして、絵のヒントを絵から探していた。
それが大きな間違いだった。
何千枚、何枚の絵を見たことだろう・・・。
しかし、僕の絵は見つからなかった。
そこで手塚治虫と赤塚不二夫の話を思い出した。
赤塚不二夫が手塚治虫に「どうしたら先生のような漫画が描けますか?」と質問したところ手塚治虫はこう言ったらしい。「漫画を漫画から学んではいけない。」
この言葉を僕はある時に不意に思い出し、絵とは関係のない本を読んだり、生き物の図鑑などを見るようにした。そこで蝶の羽の模様に注目した。
これは神のデザインだ。
蝶の模様、貝の模様、クラゲの色、ウミウシの色。
それらを模して自分の中に落とし込み、昇華させる作業に取り組みだした。つまり、僕の抽象画は具体的な神のデザインを盗んで自分が作りだしたかのような顔をすること。完全な抽象画ではない。具体的なものから出発している。完全な抽象画は人は好まない。人の目は常に神のデザインの法則性にさらされているからだ。
だから、僕は具体的なものから始まった抽象画を好む。もちろん実験的には完全な抽象画を描かなかったわけではない。
僕はようやく抽象画の世界にたどり着いたという話。
しかし、これはただの抽象画ではない。神のデザインを盗んだ抽象画だという事。人は神のデザインのほんの一部を盗むことしか出来ないだろう。すべてを盗めるならその人間は人間ではなく神だろう。
自然というのは唯一完璧なものだ。
その中にある神の芸術も完璧だと思ってる。
僕は美術の力でそれらをわずかに人の領域の芸術にするだけ。そうすることで完全は不完全になり、人の心を動かすのかもしれない。